つかさの自由帳

140文字では伝えきれないこと:自由について本気出して考えてみた


【書評】すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論-堀江貴文著

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僕が勝手にステルスリバタリアンだと思っている堀江さん@takapon_jpの新書についての書評を書きました。タイトルに教育とありますが僕は「自由」と「幸福」のための哲学書だと感じました。

 

ホリエモンというステルスリバタリアン

 

リバタリアンの多くは、リバタリアンを自称しないため普段は目に見えない。何故自称しないのかというと、信じる思想が例え「自由」だったとしても絶対的な価値観を持つことに対して抵抗感というか気持ち悪さを感じているためではないかと思う。言い換えると「自由」を好むがゆえに自分自身を特定のカテゴリーの中に入れたくないのだ。まあ、ただ単に「カテゴリー分け」に興味がないだけかもしれないが。

 

さて僕の私淑四天王の一角であるホリエモンこと堀江貴文氏もリバタリアンを自称しないステルスリバタリアンだ。ただ主張は一貫して「自由」を重んじており、本書についても存分にリバタリアニズムを感じさせるものだったので紹介したい。

 

学校教育はまったく必要ない

 

本書のテーマは教育だ。もっと言えば教育と紐付いた「国民国家というフィクション」に対して疑問を投げかける内容となっている。国家の否定はまさしくリバタリアニズムの本領だ。

 

学校教育の起源を辿れば18世紀のイギリス産業革命にまで遡る。当時のイギリスで必要とされていたものと言えば「高品質な」工場労働者だが、そのために学校教育というシステムは最適だった。決まった時間に決まった学習を行い、教師に対して従順な人格を作り出す。もちろん基礎的な学力や最低限の社会性といったものも学校は提供した。またもう一つの死活問題である軍人の確保にも教育システムは効果的だった。命をかけて敵と戦うためには「国家のために」というフィクションが必要不可欠であり、学校は洗脳機関としても優れていた。

 

さて当然であるがリバタリアンであるホリエモンは教育の強制を良しとしない。というかまったく必要ないとまで言い切っている。おそらく原風景には自らの早熟だった子供時代があり、そこで「自由」が侵害されたという記憶があるのだろう。

 

もちろん本書に書いてあることは「学校が嫌いだからなくしてしまえ」という単純な主張ではない。今後の社会の流れを鑑みても学校教育は不要だとホリエモンは説く。社会の流れというのはインターネットの登場であり、AIやロボットの普及だ。インターネットは国境を溶かし、国民国家というフィクションをも破壊し始めている。また早晩普及するであろうAIやロボットは学校教育の目的そのものであった均質な労働者を真っ向から代替するテクノロジーとなり得る。

 

もっとも今でさえ学校教育の問題点は山ほど挙げられる。様々な習熟段階にある子どもたちに画一的な教育を押し付けて良いのか、TOEICを500点も取れない英語教師に英語教育を任せて良いのか、オンラインで優れた予備校講師の授業を配信したほうが効果的ではないのか、そもそも登校する必要はあるのかetc…。

 

個人的には学校教育をまったく必要ないと言えるほど子供の可能性を信じ切れているわけではないが、そう断ずるホリエモンの主張も理解できる。尖った個性が求められる近未来において、個性を削るような画一的な学校教育はメリットよりもデメリットの方が大きいのかもしれない。

 

G人材とL人材、そしてN人材

 

さて、ここまでが全5章で構成される本書の第1章で、第2章はいわゆる人材論、というか生き方の話になる。すなわちG人材、L人材、そしてN人材だ。僕はホリエモンの著書、文章は大体チェックしているつもりだが、この概念は比較的最近語られ始めたように思う。僕が初めて見たのはNewsPicksの有料記事だったので、この部分だけでも本書を読む価値は十分にあるだろう。

 

ホリエモンは当然リバタリアンでもあるGlobal人材(G人材)だが、リバタリアン的な面白さを感じるのはLocal人材(L人材)に対する彼のスタンスだ。代表的なL人材と言えばマイルドヤンキーが挙げられるが、ホリエモンは彼らの生き方を否定することはしない。そこに幸せを感じるのならば、そう生きるのも彼らの「自由」というわけだ。またG人材とL人材はそもそも接点が少ないので、リバタリアンが最も忌避する「自由」の侵害もほぼ発生しない。

 

ホリエモンが最も問題視しているのは国家の存在を前提として成り立つNation人材(N人材)だ。彼はN人材の最大の問題点を「仮想敵」を作り出すことだと指摘するが、首がもげるほど同意したい。

 

国家というフィクションの背景にあるのは共同体の「正義」だ。そして「正義」という価値感は絶対的なものとなりうる。そのことは以前の記事で書いた通りだ。

 

では凝り固まった「正義」を振りかざすのはどのような人々だろうか。街頭でヘイトスピーチを繰り返す右翼(コミュニタリアン)はあてはまるかもしれない。でもそれだけではない。「平等」を掲げる左翼(リベラル)もまた価値感を共有しない人々に対して凶悪となる。それは沖縄の基地問題や原発問題、SEALDsの活動を見てもよく分かる。寛容を叫ぶ人ほど寛容ではないのだ。その意味で僕たちの「自由」は常に「正義」や「平等」によって脅かされている。そしてこれらを叫ぶのは決まって国家に囚われているN人材なのだ。

 

さて「自由」や「平等」、「正義」といった価値感は、それぞれリバタリアン、リベラル、コミュニタリアンの背景にある思想だ。これらはその言葉の美しさ故に目的そのものだと勘違いされやすいのだが、実は「幸福」を掴むための一手段に過ぎない。結局生きる上で最も大切なことは、いかに自分が幸せになるかということなのだ。従って本書の第3章もリバタリアン的な「幸福」がどのようなものになるのかを解き明かす内容となっている。キーワードは没頭する力であり、僕が以前書いた記事にあるような快楽マネタイズだ。

 

ここから先の内容については本書に譲りたいと思うが、ひとつ注意しておきたいことは、この本における教育は表面的なテーマに過ぎないということだ。僕はホリエモンが本当に訴えたいのは「自由」な生き方であり、「幸福」のつかみ方だと思っている。その意味で本書は、安直な教育論ではなく一種の哲学書だと言える。なので人生に迷いが生じている人はぜひ手に取って見てほしい。そこにはきっと「自由」を、そして「幸福」を掴むためのヒントがあるはずだ。

 

そう言えばG人材はリバタリアン、N人材を左右で分かれるリベラルやコミュニタリアンだとするとL人材にあてはまる思想がない。あえて言うならば「仲間」に至上価値を置くローカリアンといったところだろうか。本書を最後まで読んで、それでもなおかつリバタリアン的な生き方に違和感を覚えたならば残された選択肢はローカリアンのみだ。早々にネットを閉じ、仲間たちとサッカーでもしよう。ネットの世界にローカリアンの幸せはない。

 

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

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